蘇った 復元釜屋建民家 [田舎暮らし]

釜屋建民家.jpg

新城・桜淵公園芝生広場内に復元されていた釜屋建民家は、長年傷んだ姿をさらしていたが、美しい姿を取り戻した。
 釜屋建民家とは、江戸期から明治初期に、豊川流域から、天竜川下流域かけてのみにみられる農家の住まい。寄せ棟造り二棟、平入りの主屋と、妻入りの釜屋の棟がT字型になることから撞木造りとも呼ばれる。概して規模は小さく、庄屋クラスでも十数坪である。
 主屋に床はあるが、釜屋は土間。主屋は居住の場で、おおえ(居間)、だいどころ(いろりの間、食堂)、おでえ(仏間、客間)、おへや(寝室)の田の字型四間取りで、釜屋には、おかって(炊事場)、にわ(作業場)、ふろ、うまやがあり、炊事と生産の場となっていた。
 二棟は軒を接し、丸太をくり抜いた樋で谷に落ちる雨水を受け、前庭に落とした。樋は内部から見ると、大きな梁が貫通しているかのようで、外からみれば二棟だが、内部は一体化されている。

釜屋間取り.jpg

 「東三河釜屋造り民家」(大林卯一良著)には、著者自ら取材し描いたスケッチで、釜屋建民家百棟以上紹介されている。その中で「昭和四十六年の調査で百六十五棟を確認していたが、その後、五・六年の間に大半建て替えられ、凡そ三分の一になってしまった」と記している。
 私が中学生だった今から五十年前(昭和四十九年)、通学路に落ちていた馬糞から湯気が立ち上ることは、珍しい光景ではなかった。先生が、スバル360に乗って、颯爽と校庭の駐車場に乗り付けてきたことが話題になったのも、その頃だった。スバル360は、デザインを参考にしたフォルクスワーゲンのあだ名「かぶと虫」に対して、「てんとう虫」の名で日本最初の「国民車」となった四人乗りの軽自動車だ。その年、東京オリンピックが開催された。直後から、日本では、モータリゼーションが急速に進んだ。必要なくなった「うまや」は、納屋や居室に改装され、土間には床が張られ、やがて建て替えられ、釜屋建民家は使命を終えた。
 その多くが姿を消してしまったが、この復元民家(市文化財指定)の他、新城市黒田に残る「望月家住宅」と旧引佐町的場の「鈴木家住宅」は国指定され今に残っている。

この拙文は本日発売の「そう43号」に掲載したもの。
 復元釜屋建民家は新城市庭野地区の小野田泉氏邸と中宇和地区の安形善治氏邸を解体し復元された。
建物内部に古民具などを展示し、以前は毎週土曜日の午前中にいろり、くどに火を入れていたのだが、現在は閉められたまま。戸を開け、火を入れることで、茅が乾燥し長持ちするのだが、人件費などの問題はあるのだろうが、せっかく葺き直したのに残念なことだ。

 

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
にわか百姓ですPorte Bonheur open ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。