遠山霜月まつり [田舎暮らし]

遠山霜月まつりに
ピンチヒッターの取材に出かけた。
飯田市南信濃、飯田市上村の
中央構造線に沿って連なる
細長いV字状の峡谷
遠山郷に伝えられてきた祭りだ。

しかし、取材の対象は祭りではない。
今は使用されていない引退面とも
古代面とも称される、たれ目の面の取材だ。

その面については
6月発行の「そう」で詳しく
書かなくてはならないので

ここでは書けない
そこで、遠山霜月まつりについて
少しだけ

遠山霜月まつりは
毎年十二月
遠山郷十二カ所(十三神社)で奉納されている。
その内、江戸時代初期まで
この地を支配していた
遠山氏の惣鎮守であったとされるのが
木沢・正八幡神社である。

国道一五二号で和田市街を抜け
遠山川に添って走ると
まもなく木沢の集落である。

国道から旧道に入り
三ッ沢橋を渡ると右手に一際高く聳える
おそらく欅の大木が目に入る。

その昔は
辺りは樹々に埋もれていたのだろうが
現在は小さな鳥居と
数段の石段と
登り切った僅かな本殿の前庭に
数本の高木が立つばかり。

まだ冬の日は高いが
すでに本殿前には太い薪が焚かれ
人々が暖をとり
祭りの始まりを待っている。

辺りはすっかり
人工の町になってしまっている。
もちろん、現代的な町並みではない。
どこも変わらぬ
過疎の村、特有の町並みだが

正八幡神社だけが
ポッカリと、時代に抗うように
中世の頃から変わらぬ
鎌倉武士の気概を漂わしている。

木沢八幡宮.jpg

神木の巨大さに比較すると
いささか不釣り合いな
鳥居をいざくぐろうとするが
汚れた我が身が恐れ
咄嗟に鳥居横を通り、石段を登る。

大きな格子戸を開けると
長年の湯立ての湯と竈の煙でいぶされ
舞処の壁も天井も真っ黒である。

中央に三つの釜を並べた竈を備え
その上には巨大な梁が渡されていたのだが
祭が始まってしばらくして
その存在に気がついたほど
真っ黒だった。

湯立ての釜の回りには
ハ丁字と呼ばれる八柱の竈神の弊が立つ。
竈上の湯飾りには
鳥居、日天子・月天使、格子の切り紙が飾られ
湯男の弊と神の通り道「千道八橋」が延び
祭りの間
湯気に煽られ、はためき続けている。

これまで
三遠南信で数多くの湯立神楽を見てきたが
これ程、神と交歓するに相応しい
舞処は初めてである。

柳田国男が「日本の祭りの原型」と
書いた祭りである。
期待も高まる。

格子戸の横には会所がある。
訪れた人々が寸志を奉納する。
すると、のしの文字と金額・奉納品と共に
寄進者の名を書き、舞処の四方の壁に貼る。
それが祭りを支える一助となるのだが
その数が増え
壁が埋め尽くされると共に
祭りが盛り上がってくる。

しかし、その書きぶりは
お世辞にも達筆とは言い難い。
そのこだわりのなさが
かえって山里に生きる人々の
生き様と逞しさを
遺憾なく発揮しているようにも思えた。

のし.jpg

その堂々とした、微笑ましい一枚を
写真にとどめおこうしたら
◯◯の知り合いかいと聞かれ
困った。
この下手さが面白いとは
とても言えない。

湯立神楽は
最も太陽の光が衰え
あらゆる生命の力も衰えるとされる旧暦十一月に
神々を招いて湯を立て
湯を献じ、自らも浴びることによって
神も人も生まれ変わるという信仰を伝える祭りである。

湯立.jpg

祭りは二部構成である。
前半は、繰り返し、繰り返し
諸国の神々にご降臨をお願いする。
それに応じて神々が
湯の上飾りの千道八橋を通って訪れ
湯立神楽を神々に奉る。
そして、神々をお送りする。

後半はこの土地だけの
面形の神々が舞処に現れ
集う全ての人々の頭を
笹や笏でふれ
祝福を与えながら竈を一周する。

水王.jpg

次々と神をお迎えし
滞りなく神々をお送りすると
最後に天伯が現れ
舞処を鎮めると
遠山谷には新しい春が訪れる。

まもなく
夜が開けようとしている。
祭りが終わると
厳しい遠山の生活に
新しい時代が蘇ることを信じながらの
帰路新野峠は雪が降りしきっていたようだが
私は毛布にくるまれぐっすり寝入っていた。

写真撮影・宮田明里



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