第10回トリエンナーレスクール「素材で表現する」 [アート]

2015年12月5日(土)
穂の国とよはし芸術劇場PLAT
アートスペースにて開催された
第10回トリエンナーレスクール
「素材で表現する」の
イベントレポートがアップされた。

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「トリエンナーレスクール」とは、
あいちトリエンナーレ2016に向けて、
現代アートを楽しみながら学ぶ
レクチャーシリーズ。

トリエンナーレ招待アーティストとして
講師を務めた。

あいちトリエンナーレ2016
チーフ・キュレーターの拝戸雅彦さんが
進行役となり

冒頭で拝戸さんより
トリエンナーレが3回目を迎え
県としてのふさわしい規模感と
広がりのある展開を目指して
豊橋にも会場が作られることが話された。

その後
私が招待された理由と
ここ25年ほど土を使って制作した
仕事を紹介し

最後に
今回のテーマである
「虹のキャラヴァンサライ 創造する人間の旅」に
導かれた新しい旅「峠へ」の
構想を語らせていただいた。

因みに私は
豊橋会場ではなく
愛知県美術館の
一室を使って発表する。

これまでの「土」による行為で
最も大きな仕事となる。

詳細は

http://aichitriennale.jp/blog/index.html



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個展「旅へ」が終わった。 [アート]

個展「旅へ」が終わった
搬出も本日終了した

今回も多くの方が遠くから来場され
充実した展覧会だった

最終日の終了間近(正確には終了後)には
あいちトリエンナーレ2016で創作する
ダンスの取材で東栄町「花祭り」を訪れた
ダンサー・振付家の山田うん氏とダンスカンパニーのメンバーや
チーフ・キュレーターの拝戸雅彦氏と
そのスタッフが顔を見せてくれた
遠くから、本当にありがとう

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個展終了記念撮影 右から二人目が山田うん氏、左から三人目が拝戸雅彦氏

その日の昼過ぎには
先に帰られたダンスカンパニーのメンバーの方々を含めると総勢19名
来年1月にも再び「花祭り」を取材されるという
今更ながら
あいちトリエンナーレのスケールに驚いている

しかし残念ながら
来場者は圧倒的に市外が多い
陶磁美術館での企画展〈愛知ノート〉でも思ったのだが
残念なのは開催が尾張のため
東三河には殆ど情報が届かない
逆のケースでも、それは同じはずなのだが
遠くからはるばる
それも熱心な来場者が多い

感度を上げなければ
時代はどんどん先に行ってしまう
あいちトリエンナーレの一部が
豊橋でも開催されることになったが
一つの契機となればよいのだが…

因みに、私は名古屋での発表の予定である

ほっと一息と言いたいのだが
トリエンナーレスクールが目の前に迫っている

トリエンナーレスクールとは
あいちトリエンナーレ2016に向けて
現代アートを楽しみながら学ぶレクチャーシリーズ

その第10回に
「素材で表現する」と題して私が
進行役の拝戸雅彦氏(あいちトリエンナーレ2016 チーフ・キュレーター)の
質問に答えることになっている

チラシには
アーティスト、編集者、デザイナー、タイポグラファと
さまざまな顔を持つ味岡伸太郎
今回は、アーティストとして
どのようにして土の素材と出会ったか
そして素材で表現すること
あるいは表現すること自体について語ります
と紹介していただいた

どのような質問にも答えられるように
土の仕事を中心に20代のころからの作品まで
画像を用意しようと思う
上映効果も抜群なので少し楽しみだ

あいちトリエンナーレ2016の
作品プランも発表できるだろう

と き 2015年12月5日(土)14:00~16:00
ところ 穂の国とよはし芸術劇場PLAT アートスペース
ゲスト 味岡伸太郎(あいちトリエンナーレ2016 参加アーティスト)
進行役 拝戸雅彦(あいちトリエンナーレ2016 チーフ・キュレーター)
定 員 200名
共 催 豊橋市
参加費 無料(申込不要)
当日は開始時刻の30分前から受付を開始し整理券を配布
受付は先着順で定員に達した場合は入場できない
(まさか、そんな事はないと思うが… )
お早めに

詳しく&ちらしのダウンロードは
http://aichitriennale.jp/event/item/2015_triennaleschool_02.pdf


 

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景象〈表紙の言葉〉101,102 [アート]

景象101号の表紙の言葉と同じ内容を
すでにブログでは書いたしまったので
覚えている方は飛ばして
102号だけ読んでください。
と言っても
確認する間に読み終わってしまいそうだが…

景象〈表紙の言葉〉101号

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垂直考:立方体の出隅と同一のアールを入隅に持つアングルは直立する

前号では「水平考」だったが、今回は「垂直考」である。今回も、やはり「垂直」であることに意味はない。
 表紙の作品を発表した個展を見たある浄土真宗の住職が、ブログで次のようなことを書いていた。
 古くインドの龍樹菩薩の著書・大智度論の「 指月の譬」に「人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、惑者は指を視て、月を視ず。人、これに語りて、『 われは指を以って月を指し、汝をしてこれを知らしめんとするに、汝は何んが指を看て、月を視ざる』、と言うが如く」(月を知らせようと、指で指し示すのだが、愚かな者はその指ばかりを見入って、月を見ないままである」という、言葉とそれが知らせようとするものが異なることを告げている。)
 たまたま目にした鉄の立方体の全ての出隅にアールがあった。側にあった鉄のアングルの入隅もぴん角ではなくアールを持つ。添わせてみるとピタリと合う。倒れる可能性で残るのはアングルの面に添った方向のみ。立方体の上面の対角線上に立方体と同じサイズの石を置くと、安定して、アングルを垂直に立てることができた。この全ての発想と手順と結果の三者が同時に訪れたとき、制作は始まり、同時に完了する。だが、その三者、いずれも「月」ではなく、「月」の美しさを示したいのでもない。知らしめ、知りたいのは「何故、月は美しくあるのか」である。

景象〈表紙の言葉〉102号

形象102.jpg
垂直考:直角に屈折する線分は一つの重力で直立する

前号、で、知らしめたいのは「何故、月は美しくあるか」である。と書いて字数がつきてしまった。今回はその続き。
 通常、美術は、美しいものを創りだすことが目的とされている。その意味に限れば、美術家が示すのは「月の美しさ」とも言える。しかし、美しさを求めることは、技術的であったり、表面的な美しさにつながる危険が常にある。美しさをことさら求めずとも、必ず美しいものが生み出される行為のあり方。それを探し求めること。それこそが、私の求める現代美術であり、現代美術が常に新しさやオリジナリティに価値を見出す理由なのだ。それが、知らしめたいのは「何故、月は美しくあるか」と書いた理由でもある。それを造形と美術の違いと言い換えてもよい。造形とは、形を作ること。美術とは、美とは何かと考え続けること。
 満月はもちろん美しい。しかし、三日月も半月も雲に隠れた月も、好みは人それぞれだが、美しい。まったく見えなくとも、想像した月もまた美しい。自然は本来美しい。しかし、自然自身がそれを望んだわけではない。月の美しさを見いだしたのは人間である。月はその美しさを知らない。満月を美しく思い、満月を望むのは、人の作為である。三日月や雲に隠れた月の侘びた美しさをことさら愛でるのも、同様に作為である。人は作為なくして、行動はできない。しかし、作為に囚われていては、何も見出さず、創り出さない。答えは人間の「作為」に関わっている。



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