景象98号 [デザイン]
景象98号が発行された。
今号も表紙のデザインと表紙の言葉を書いている。
分岐を立方体の内側に持つ12の線分
「面白さ」をことさら求めるのは面白くない。
しかし、結果として造形的な面白さがなくては「美術」とは言えない。
と常々思っている。
そこで「一本の枝から枝分かれする細い枝を12本切り取る。
そして、切り取った部分から、それぞれ25センチメートルを残して再び切り取る。
25センチメートルの理由は、
それぞれの枝に、枝分かれが必ず一つ残るように切るためである。
その枝を、立方体が形づくられるように順に両端を縛っていく。
枝分かれは必ず、立方体の内側に向けて縛っていく。」と閃いた。
「閃き」とは、広辞苑によれば、瞬間的な鋭い光。であり、
鋭敏な頭の働き。すぐれた思い付きや直感である。
この思いつきが、鋭い光や、鋭敏な頭の働きや、特別すぐれているとは言い難いが、
私にとって重要なのは、その手順の総てが「瞬間的な直感」で決定されたことである。
枝分かれの方向に、無頓着に縛って出来る立方体も面白い可能性はある。
それはこの拙文を書いている内に気がついたが、恐らく制作することはない。
制作の動機や結果は、試行錯誤の賜ではない。
「閃き」だけが「秩序」と、それに豊かさを加える「面白さ」を同時に生むことができる。
毎回同じような作品で同じようなことしか書けない。
しかし、今回は少し発見があった。
何時も、表紙の下半分でデザインしている。
今回の作品は左右に合わせて入れてしまうと作品が小さくしか入らない。
作品の全体は見せたい。しかし、小さくては表紙にならない。
そこで閃いた(?)のが、写真を裏まで回すこと。
景象の表紙を担当してもう60号以上になる。
つまり、こんな簡単ことに気づくのに、15年以上かかったことになる。
それも、前回の「そう」の表紙が山本宏務の写真を同じように回して使ったからである。
情けないが、所詮、ワンパターンの人間なのだ。
それでも、柳の下に泥鰌がいつも残っているといいのだが… 。
今号も表紙のデザインと表紙の言葉を書いている。
分岐を立方体の内側に持つ12の線分
「面白さ」をことさら求めるのは面白くない。
しかし、結果として造形的な面白さがなくては「美術」とは言えない。
と常々思っている。
そこで「一本の枝から枝分かれする細い枝を12本切り取る。
そして、切り取った部分から、それぞれ25センチメートルを残して再び切り取る。
25センチメートルの理由は、
それぞれの枝に、枝分かれが必ず一つ残るように切るためである。
その枝を、立方体が形づくられるように順に両端を縛っていく。
枝分かれは必ず、立方体の内側に向けて縛っていく。」と閃いた。
「閃き」とは、広辞苑によれば、瞬間的な鋭い光。であり、
鋭敏な頭の働き。すぐれた思い付きや直感である。
この思いつきが、鋭い光や、鋭敏な頭の働きや、特別すぐれているとは言い難いが、
私にとって重要なのは、その手順の総てが「瞬間的な直感」で決定されたことである。
枝分かれの方向に、無頓着に縛って出来る立方体も面白い可能性はある。
それはこの拙文を書いている内に気がついたが、恐らく制作することはない。
制作の動機や結果は、試行錯誤の賜ではない。
「閃き」だけが「秩序」と、それに豊かさを加える「面白さ」を同時に生むことができる。
毎回同じような作品で同じようなことしか書けない。
しかし、今回は少し発見があった。
何時も、表紙の下半分でデザインしている。
今回の作品は左右に合わせて入れてしまうと作品が小さくしか入らない。
作品の全体は見せたい。しかし、小さくては表紙にならない。
そこで閃いた(?)のが、写真を裏まで回すこと。
景象の表紙を担当してもう60号以上になる。
つまり、こんな簡単ことに気づくのに、15年以上かかったことになる。
それも、前回の「そう」の表紙が山本宏務の写真を同じように回して使ったからである。
情けないが、所詮、ワンパターンの人間なのだ。
それでも、柳の下に泥鰌がいつも残っているといいのだが… 。
2014-03-17 16:40
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2013 韓国国際ポスター展 2 [デザイン]
2013年12月6日から、ソウルデザインセンターで、
韓国、中国、日本、台湾、ポーランドのポスターデザイナー300名による招待部門と、
韓国国内からの公募部門「世宗賞」のコンペティション作品で構成される
「2013 韓国国際ポスター展」が開催された。
私は、招待部門での出品に加え、
日本から2名が指名された「世宗賞」の審査と
初日に開催されるシンポジウムのパネラーとして、4日にソウルに向った。
「世宗賞」はハングルを創ったことで知られる世宗大王を讃えて新設され、
来年からは「セジョン国際ポスタービエンナーレ」に発展させる予定と聞いている。
今回のシンポジウムのテーマは
「セジョン国際ポスタービエンナーレを世界的に定着するために」であった。
そして、開催間近になって、昨年開催された
「第十回世界ポスタートリエンナーレトヤマ2012」について
レクチャーしてほしいとの、連絡が届いた。
このトリエンナーレは、日本で唯一の国際公募展で、
昭和60年の創設以来、第10回展を迎える今回は、
世界53の国と地域より4622点ものポスターが寄せられ、
入選・受賞作品に審査員による招待作品を加えた約420点のポスターが紹介された。
しかし、私はこれまでポスター中心のコンペティションには興味を持てずにいた。
昨年は、トリエンナーレ会期中に、
日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の総会が富山市で開催された。
私も役員の一人として出席、トリエンナーレは、総会に組み込まれていたが、結局、見ていない。
招致時には一言の説明もなく、当然のように、説明できると考える、
無謀ともいえる主催者の楽観ぶりには驚かされることしきりで、
当初、困惑するばかりであった。
しかし、いまさら辞退もできず、
しかたなく、まずは審査講評を分析することから始めた。
受賞作品の審査員は4名。
それぞれ、招待の礼と受賞者への賛美を除いた、主要な発言は以下のようであった。
永井一正(日本)
○媒体としてのポスターの斜陽。
○ポスターは経済性より社会性、文化性に重点が置かれるようになった。
松永真(日本)
○ポスターについての内容や状況の説明の必要性。
○ポスターが死に瀕している。
○ポスターが物や表現の代理人という立場から、より自主的な表現をもったものへと発展し、第六回からは自主制作部門が開設された。
○ポスターはデザイナーの自画像。個々の発言の重要性が増している。
アラン・ル・ケルネ(フランス)
○言語、文化の違いを形だけで乗り越えることができるのか。
カリ・ピッポ(フィンランド)
○視覚的な美しさと、何を伝えたいかの情報がもっと必要。
○視覚コミュニケーションは多くを言葉に頼る。
すこし補足すれば、
宣伝/広報=ポスター、という考え方は日本では、1970年代で終わり、
特定の場所にだけ貼られるポスターはその一部に過ぎず、選択は多様化している。
デザイナーのポスターへの絶ちがたい憧れのような意識が存在し、
自己表現の場として、他の媒体に比較し優越性があると多くのデザイナーは考えている。
このことに触れたのは、日本の審査員のみで、ヨーロッパの審査員は触れていない。
これは日本の特殊性なのか、
それとも、あえてそのことに、触れなかったのか、文面だけでは判断できない。
最終的には、次の3点の課題に集約される。
1. ポスターが使命を終えたいま、ポスターの可能性とは何か。
2. ビジュアル審査を越え、言語、文化の違いを越えた審査はいかにしたら可能か。
3. 視覚コミュニケーションとしてとしての言語の重要性をいかにしたら再確認できるのか。
と、このような内容を
ポスターという言葉を韓国、中国、英国、日本の各国の文字で表現したボードを使用して、
まず説明した。
具体的な提案として、
全ての応募者がハングルのタイプフェイスを制作し、
それを使用したポスターを出品することを提案した。
それが、可能であることを示すために、
私もこのシンポジウムのために、ハングルに初めて挑戦。
「セジョン国際ポスタービエンナーレ」をタイプフェイスにすることを前提にデザインした。
そして、その文字を使用して、制作したボードが
右より、ハングルで「タイプ」「フェイス」「世宗」
下に横書きで「ポスター」である。
「ス」の文字がダブっている。
このような課題に挑戦すれば、
ハングルを創成した世宗大王の顕彰もでき、
若い文字「ハングル」のタイプフェイスも完成されていき、
韓国のグラフィックデザインにこのビエンナーレが大きく貢献できるだろう。
また、欧米や日本のタイプフェイスデザインの理論や技術もまた、
この課題を通して、ハングルに貢献できることを、
初めて挑んだハングルで私は確信した。
その後、
デザイン誌、日本の「アイデア」と韓国の「365」の編集長から、
私たちと同様に、
現状のポスタービエンナーレに対して興味を持てず
取材も行っていないとの
発言もあつて、シンポジウムは終了した。
韓国、中国、日本、台湾、ポーランドのポスターデザイナー300名による招待部門と、
韓国国内からの公募部門「世宗賞」のコンペティション作品で構成される
「2013 韓国国際ポスター展」が開催された。
私は、招待部門での出品に加え、
日本から2名が指名された「世宗賞」の審査と
初日に開催されるシンポジウムのパネラーとして、4日にソウルに向った。
「世宗賞」はハングルを創ったことで知られる世宗大王を讃えて新設され、
来年からは「セジョン国際ポスタービエンナーレ」に発展させる予定と聞いている。
今回のシンポジウムのテーマは
「セジョン国際ポスタービエンナーレを世界的に定着するために」であった。
そして、開催間近になって、昨年開催された
「第十回世界ポスタートリエンナーレトヤマ2012」について
レクチャーしてほしいとの、連絡が届いた。
このトリエンナーレは、日本で唯一の国際公募展で、
昭和60年の創設以来、第10回展を迎える今回は、
世界53の国と地域より4622点ものポスターが寄せられ、
入選・受賞作品に審査員による招待作品を加えた約420点のポスターが紹介された。
しかし、私はこれまでポスター中心のコンペティションには興味を持てずにいた。
昨年は、トリエンナーレ会期中に、
日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の総会が富山市で開催された。
私も役員の一人として出席、トリエンナーレは、総会に組み込まれていたが、結局、見ていない。
招致時には一言の説明もなく、当然のように、説明できると考える、
無謀ともいえる主催者の楽観ぶりには驚かされることしきりで、
当初、困惑するばかりであった。
しかし、いまさら辞退もできず、
しかたなく、まずは審査講評を分析することから始めた。
受賞作品の審査員は4名。
それぞれ、招待の礼と受賞者への賛美を除いた、主要な発言は以下のようであった。
永井一正(日本)
○媒体としてのポスターの斜陽。
○ポスターは経済性より社会性、文化性に重点が置かれるようになった。
松永真(日本)
○ポスターについての内容や状況の説明の必要性。
○ポスターが死に瀕している。
○ポスターが物や表現の代理人という立場から、より自主的な表現をもったものへと発展し、第六回からは自主制作部門が開設された。
○ポスターはデザイナーの自画像。個々の発言の重要性が増している。
アラン・ル・ケルネ(フランス)
○言語、文化の違いを形だけで乗り越えることができるのか。
カリ・ピッポ(フィンランド)
○視覚的な美しさと、何を伝えたいかの情報がもっと必要。
○視覚コミュニケーションは多くを言葉に頼る。
すこし補足すれば、
宣伝/広報=ポスター、という考え方は日本では、1970年代で終わり、
特定の場所にだけ貼られるポスターはその一部に過ぎず、選択は多様化している。
デザイナーのポスターへの絶ちがたい憧れのような意識が存在し、
自己表現の場として、他の媒体に比較し優越性があると多くのデザイナーは考えている。
このことに触れたのは、日本の審査員のみで、ヨーロッパの審査員は触れていない。
これは日本の特殊性なのか、
それとも、あえてそのことに、触れなかったのか、文面だけでは判断できない。
最終的には、次の3点の課題に集約される。
1. ポスターが使命を終えたいま、ポスターの可能性とは何か。
2. ビジュアル審査を越え、言語、文化の違いを越えた審査はいかにしたら可能か。
3. 視覚コミュニケーションとしてとしての言語の重要性をいかにしたら再確認できるのか。
と、このような内容を
ポスターという言葉を韓国、中国、英国、日本の各国の文字で表現したボードを使用して、
まず説明した。
具体的な提案として、
全ての応募者がハングルのタイプフェイスを制作し、
それを使用したポスターを出品することを提案した。
それが、可能であることを示すために、
私もこのシンポジウムのために、ハングルに初めて挑戦。
「セジョン国際ポスタービエンナーレ」をタイプフェイスにすることを前提にデザインした。
そして、その文字を使用して、制作したボードが
右より、ハングルで「タイプ」「フェイス」「世宗」
下に横書きで「ポスター」である。
「ス」の文字がダブっている。
このような課題に挑戦すれば、
ハングルを創成した世宗大王の顕彰もでき、
若い文字「ハングル」のタイプフェイスも完成されていき、
韓国のグラフィックデザインにこのビエンナーレが大きく貢献できるだろう。
また、欧米や日本のタイプフェイスデザインの理論や技術もまた、
この課題を通して、ハングルに貢献できることを、
初めて挑んだハングルで私は確信した。
その後、
デザイン誌、日本の「アイデア」と韓国の「365」の編集長から、
私たちと同様に、
現状のポスタービエンナーレに対して興味を持てず
取材も行っていないとの
発言もあつて、シンポジウムは終了した。
2013-12-17 12:27
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